土曜日, 7月 19, 2025

事業承継問題への新薬としてのM&A(佐藤裕太 社労士)

■M&Aから学ぶ労務管理―これからの100年企業を目指して①

佐藤 裕太(さとう ゆうた)
TRY―Partners㈱代表取締役。社会保険労務士。東京都社会保険労務士会・千代田支部・開業部会委員。経営者のパートナーという役割を使命とする社労士事務所も運営。迅速で丁寧なデューデリジェンス(労務DD)には定評がある。M&Aシニアエキスパート。

「M&A」は、昨今、メディア等で頻繁に取り上げられており、現在では広く認知される存在となっています。M&Aとは「合併及び買収」の略称です。中小企業庁によると「会社法の定める組織再編(合併や会社分割)に加え、株式譲渡や事業譲渡を含む、各種手法による事業の引継ぎ」と定義づけられています。

M&Aという手法自体は、我が国における戦前の財閥形成の過程で既に存在しており、その歴史は古いものです。金融機関において大規模な合併や経営統合が相次ぎ、いわゆるメガバンクというものが誕生した事象は、記憶に新しい読者も多いことでしょう。

2024年における日本企業のM&A件数は、過去最多と報告されています。このようにM&Aの件数が増加傾向にある背景には、M&Aに関与する仲介業者等の増加に伴い、M&Aという手法が広く認知されてきたという側面があります。しかし、主たる要因としては、後継者不在を背景とする事業承継問題が中小企業を中心に顕在化してきた点が挙げられます。

■M&Aの重要性

企業の承継手段には、①親族への承継、②従業員等への承継(いわゆる社員承継)、③株式公開(IPO)による承継があります。このうち、IPOは一定の成長性や収益性を備えた企業に限られます。そのため、後継者が見つからない場合には、たとえ黒字であっても廃業を余儀なくされるケースが生じています。

例えば、地域住民からの支持を受け、地元経済を支える有力企業であっても、事業承継問題を理由に廃業を余儀なくされるケースがあります。このような事態は極めて非経済的です。また、当該企業で働く従業員の雇用喪失に繋がる結果となります。これらの問題を回避すべく「事業承継問題への新薬」として、M&Aが注目されています。

M&Aは、人事労務担当者にとっては直接的な関与が少ないものと捉えられがちです。しかしながら、実際には人事労務担当者こそがM&Aに積極的に関与することが求められます。なぜなら、M&A後の統合過程において発生する多くの課題は「ヒトの問題」に起因するためです。

会社の顧問として関わる社会保険労務士(社労士)としても、M&A問題は「対岸の火事」では済まされず、適時適切な制度案内から従業員のフォローアップまで積極的な関与が求められているといえます。

■M&A手続の流れ

社労士や人事労務担当者がM&A案件に積極的に関与するにあたって、前提知識としてM&A手続きの基本的な流れを把握する必要があります。

M&A業界では、まず譲渡希望企業を見つけることが最重要と認識されています。そのため、一部の仲介業者では大量のダイレクトメールや電話による積極的な営業活動が行われてきました。この点は、世間でも問題視されてきたところです。

M&A手続きの基本的な流れは、下図表のとおりです。ポイントとしては、両当事者で基本合意を締結することで、独占交渉権が付与され、買収価格の適正性を判断するためのデューデリジェンス(DD)が実施されるという点です。


買い手としては、基本合意契約の締結段階から統合後を見据えて企業文化の違いをすり合わせる準備を進めることが非常に重要です。このM&Aに係る統合作業を「PMI」といいます。

例えば、ある朝、社内で「来年から当社はA社と経営統合することになりました」と全社員に周知されたとします。このとき従業員が抱く感情について、想像してみてください。「凄い、やったぞ!」といったポジティブな感情よりも「この会社は大丈夫だろうか?」「新体制になって自分は辞めさせられないだろうか?」といったネガティブな感情の方が多いのではないでしょうか。このような負の感情を放置すれば、M&A後の統合プロセスに悪影響を与え、結果としてM&A全体の失敗に発展するおそれがあります。

したがって、PMIへの対応は、可能な限り早期の段階から準備を進めておくことが望ましいといえます。

■労務DDの役割

M&Aにおいては、関係当事者それぞれが異なる思惑を抱えているのが通例です。売り手としては、後継者不在への対応に加え、できる限り高い売却価格の実現によって利益を確保することが主要な目的となるケースが多く見受けられます。一方で、買い手は、シナジー効果の創出や事業基盤の拡大という戦略的な観点からM&Aを検討することが一般的です。

前述の図表のとおり、売り手が企業概要書(IM)を作成する際に一定の調査を実施しますが、IMはあくまで売却を前提に売り手が作成する資料であり、その記載内容が常に客観的かつ適正であるとは限りません。このため、買い手によるDDの実施は、適切なリスクの把握及び意思決定のために極めて重要といえます。

労務分野における労務DDは、未払い残業代を含む潜在的労務リスクを精査し、減損事由の有無を確認する重要なプロセスです。現状において、主に弁護士が実施する法務DDの一環として簡易的に行われる例も見られますが、社労士が積極的に関与すべき領域といえます。社労士は企業顧問として継続的に関与できる存在であるため、PMIにも貢献が期待されるからです。

また、小規模な案件ではDD自体が省略されることもあります。しかしながら、潜在的なリスクの見落としは、企業経営の根幹を揺るがしかねない重大な失敗を招くおそれがあり、望ましい対応とはいえません。実際問題、小規模な案件であるほど「労働基準法は何処に行ったの?」というレベルの根本的かつ深刻な労務リスクを内包しているケースが少なくないのが実情です。

■M&Aと企業価値

M&Aは、事業承継問題に対する有効な手段ですが、全ての事業承継問題がM&Aによって解決可能なわけでもありません。例えば、企業規模が小さく譲渡価額が低い場合には、仲介会社の支援対象外とされることもあります。また、管理体制がそもそも不十分であれば、売却自体が困難となるケースも少なくありません。

したがって、平時から「企業価値」を高める取組姿勢が不可欠です。この企業価値をどのように捉え、いかに高めていくかという論点は、次回以降のテーマです。顧問社労士や人事労務担当者としては、M&Aの動向を注視し、堅実に対応していく姿勢が求められる時代を迎えています。

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