■連載:人事担当者がわかる最近の労働行政
2022年10月29、30日に開催された日本労働法学会の第139回大会は「労働安全衛生法改正の課題」というテーマで大シンポジウムを開きましたが、そこにただ一人労働法学者以外から登壇していたのが産業医科大学教授の堀江正知氏でした。「産業医制度の歴史と新たな役割」というその報告で、堀江氏は戦時体制下で作られた一般健康診断という制度が他国に例を見ない独特の制度であることに注意を促しました。
現在労働安全衛生法第66条以下に規定されている健康診断については、我々ほぼ全てが労働者として毎年受診してきた経験を持つこともあり、違和感を感じることもないまま過ごしてきていると思われますが、その源流は堀江氏が指摘するとおり、戦時体制下の健民政策にあり、それが戦後80年近くにわたってさらに拡大発展してきたという歴史があります。本稿では、労働法学の本流からは軽視されがちな労働安全衛生法制において、日本独特の発展の方向性を根底で形作ってきたものともいうべき職場における健康診断の源流を見ていきたいと思います。
現在の労働安全衛生法の出発点は、1911年に制定され1916年に施行された工場法の第13条ですが、これに基づき制定された省令には健康診断規定はありませんでした。現行労働安全衛生法の健康診断規定の直接の原型である規定が初めて設けられたのは、1938年の工場危害予防及衛生規則改正(昭和13年4月16日厚生省令第4号)によってです。この背景には、戦時体制が進む中で、結核対策と国民の体力向上に熱心な陸軍のイニシアティブで厚生省が設置されたことと国家総動員法が制定されたことがあります。
厚生省が設置されたのは1938年1月11日ですが、これは支那事変が始まった盧溝橋事件から6か月を経過し、近衛文麿首相が「蒋介石政権を対手とせず」と声明した同年1月16日の直前でした。しかしその動きは陸軍省医務局長・陸軍軍医総監であった小泉親彦が1936年秋頃、国民の体力向上のため強力な衛生行政の主務官庁を作る衛生省構想を提起したことに始まります。小泉はその理由を、「全国から某師団に集まる優良なる壮丁三千五、六百名の中で約二百名が慢性の胸の疾患を有つてゐる。然し是は甲種合格である。甲種にならなかつた乙種の体格者、それから不合格者の者を合せれば、全壮丁中の過半数以上となるが、此等の不良体格者の中に、如何に多数の胸の悪い青年が存在するか想像に難くない。病気でなく、日々仕事に励むで居る青年で、口から結核菌を吐出す人が百人に付二人づゝあるのであるから、此の有疾無息の健康者が全日本にどれ位多数あるか、能く考へて見なければならぬ」と述べていました。
そこで陸軍は、近衛文麿に対し内閣支持の条件として同構想の受入れを求めたのです。一方近衛には福祉国家構想から内務省社会局を中心とした新省設置の考えがあり、この両者を合体させて、「国民体力の向上及び国民福祉の増進を図るため」保健社会省を設置することとしたのです。ところが枢密院から、国内情勢に照らして「社会」という文字は不適当という意見が出され、書経の「正徳利用厚生」からとった「厚生」という言葉を用いることとなり、体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局の5局プラス保険院からなる厚生省が設置されたのです。新生厚生省の中でも最重要課題とされたのは国民体力の向上でした。体力局は鋭意調査を進め、国民体力管理法案を作成して議会に提出し、1940年4月8日国民体力法として成立に至りました。同法は未成年者に対する体力検査を義務づけるとともに、同局は国民運動として健民運動を展開しました。こうした動向が、健康診断規定の導入発展の背景事情として存在していたことは重要です。
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