雇用保険の給付制限期間(濱口桂一郎)

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■連載:人事担当者がわかる最近の労働行政

去る2月15日に開催された第14回新しい資本主義実現会議において、岸田文雄首相は突然、雇用保険の失業給付について自己都合離職者に課せられている給付制限期間を見直す意向を明らかにしました。議事概要によると、最後の締めくくり発言のところで「さらに、労働移動を円滑化するため、自己都合で離職した場合の失業給付の在り方の見直しを行う」と述べています。その趣旨について、後藤内閣府特命担当大臣が記者会見でこう説明しています。

今、日本の労働政策であれば、自己都合で退職をした方と企業側で退職した方で給付の内容等が異なっています。本当に労働移動というものをしっかりと担保していこうということであれば、この辺の失業給付の在り方についても見直しもしていく必要があるだろうと思います。もちろん関係者にもいろんな御意見もあると思いますから、そうした皆さんの意見も聞きながらでありますが、労働移動の円滑化という点から、そういう労働法制についても制度的な見直し、検討の対象にしていく必要があると考えています。

実際、同会議に提示された基礎資料の中には、「自己都合離職と会社都合離職」というタイトルのペーパーに、「労働者が、自らの希望に応じて会社内・会社間双方において労働移動していくシステムに移行するためには、自己都合離職者の場合、求職申込み後2か月ないし3か月は失業給付を受給できないといった要件の要否の必要性について、慎重に検討すべきではないか」と書かれていて、労働移動促進のための政策として打ち出されてきていることが分かります。

ただ、議事概要を見る限り議員の関心はもっぱらジョブ型雇用やリスキリングといったことに集中し、雇用保険の給付制限に明示的に言及している人は見当たらないようです。しかしそれは特段反対する声がないと言うことなので、逆にその方向で今後政策が進められていく可能性が高いということでもあり得ます。

本稿では、官邸の会議で急に飛び出してきたこの話題について、そもそもの制度の根源に遡って、どういう経緯で今日の制度が形成されてきたのかを見てきたいと思います。

現在の雇用保険法は、1947年11月21日に失業保険法として制定されたものですが、その制定の過程では様々な意見が交わされていました。労働省職業安定局失業保険課編『失業保険十年史』(1960年)によると、まず前年の1946年3月29日、厚生省に社会保険制度調査会が設置され、そこでは賀川豊彦が失業保険組合方式を強く主張しましたが、厚生省当局の意向は国営保険方式にあり、その方向で制度設計が進められました。しかしそのいずれも自己都合離職を対象外とするものでした。すなわち賀川豊彦の失業保険組合法案要綱では、支給条件は「労働意思及労働能力あり、自己の意思によらず失業したこと」ですし、事務局の国営失業保険法案要綱でも、支給条件は「失業後定期的に勤労署に出頭し失業の認定を受けること、勤労署による就職斡旋を正常な理由なしに拒否したのでないこと、自己の不行跡により解雇せられたのでないこと」ですが、さらに「自己都合に基づく離職、又は争議による就業停止は失業と認めない」となっていました。つまり、自己都合離職はそもそも失業保険の対象にすべきではないと考えられていたのです。

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